増田リンゴの祖 藤原利三郎(ふじわら りさぶろう)

明治元年~昭和10年(1868年~1935年)

・22歳年上の平鹿リンゴの祖 伊藤謙吉に師事し、増田リンゴの栽培を始めた先覚者。

・雄勝郡三又村(現 湯沢市駒形町字三又)に茂木亀六(もてぎ かめろく)の三男として出生。
父、亀六は当時の農商務省より秋田県養蚕教師を任命され、県下の養蚕指導にあたる一方県議を5期務め、多くの農業団体の長にも推され、地方政治家として活躍した人物である。当人はこうした父の薫陶を受けて成長した。

明治18年(1885)

18歳で横手市平鹿町醍醐野中の藤原家に婿養子となる。
以来、衰退期にあった養蚕に替わるものとして、リンゴに着目した。
醍醐村で、当時からリンゴ栽培を始めていた伊藤謙吉に師事し、自ら1万㎡を開墾、植栽、栽培に着手。以来、謙吉と連れだって先進地の技術を学ぶ。

明治27年(1894)

旧西成瀬村の遠藤徳治が真人山麓に500㎡のリンゴ畑を作り、無肥料無剪定で見事な果実を実らせた。これを見た27歳の利三郎は、これは地質がリンゴ栽培に適していると判断し、リンゴの植え付けを考えたが、付近一帯は老松、古杉の林で、開墾は困難であった。
・明治34年(1901)、この林がなにかの事情で伐採されて原野になったので、買取って開墾を始め植栽を進める。
・地元農家から、リンゴで生計を立てたいとする相談が寄せられるようになり、数十人の入植希望者の中から、二男、三男、定職のないもの、将来果樹で生計をたてる者を優先条件として、土地、住宅、食糧つきで開墾に協力させ、1人当り700㎡~800㎡の土地を貸し、事業を進行させる。

明治43年(1910)

開園事業終る。
開園総面積は25万㎡に及ぶ。入植16戸の果樹専業集落の形成となる。
リンゴ栽培のため剪定法も研究、さらに良好な苗木を養育して希望者に分与した数は、10万本と伝わる。
醍醐村の山田貞吉村長は、真人山一帯は古代から良い鷹を産出して朝廷に献上して「平鹿の御鷹(みたか)」として有名であることから、一帯のリンゴ園を応鷹園(おうようえん)と名付けた。
・以降、病害虫の発生、鉱山景気による労働力の流出、耕作放棄等々による荒廃園が続出し、藤原家は幾度なく破産の危機に遭うが、二次入植者の確保や生産が増加し、販売に苦労したが、辛うじて乗りきっている。

大正3年(1914)

明治期に『苹果品定(へいかしなさだめ)』を編輯(へんしゅう)兼発行した石川理紀之助の醍醐小学校での講話に際し、利三郎は横堀駅から乗車した石川翁を湯沢駅で出迎えた。石川翁は70歳であり、十文字駅から会場までは人力車を用意した (醍醐駅の開業は昭和26年)。
石川翁日記によると、聴講者は250~260名であった。講話後、石川翁と利三郎は、平鹿リンゴの祖 伊藤謙吉(明治41年没)の仏参りをしている。

大正10年(1921)

豊作を機会に、効率性のある販売を行なうため貯蔵庫2棟を建設し値くずれを防止。価格の安定と向上を図った。

大正14年(1925)

利三郎と長男の敬之輔(けいのすけ)は地域の有志と図り、大消費地を視野に入れて増田と醍醐を合同した「応鷹園林檎(りんご)販売利用組合」を創立。組合長には敬之輔が就任した。これが「平鹿果樹農業協同組合」の前身である。

昭和3年(1928)

入植農家有志20名は、利三郎の業績を讃え、その恩義を後世に伝えるため、応鷹園内に頌徳碑(しょうとくひ)を建立した。

昭和6年(1931)

東京農大教授の恩田鉄弥博士の講演にヒントを得て“黄色いリンゴ(平鹿ゴールデン)”を県内に流行させる。
それより4年後の昭和10年に没す。
命日(5月9日)には、頌徳碑において記念祭を行なっている。

藤原利三郎
藤原利三郎
藤原利三郎
藤原利三郎君 頌徳碑 しょうとくひ
藤原利三郎
同  篆額 てんがく (表功明德、 功 明徳 こうめいとく あらわ す)
横手市増田町亀田字柳原に建立

増田リンゴ栽培の開拓者 藤原敬之輔(ふじわら けいのすけ)

明治24年~昭和34年(1891年~1959年)

・藤原利三郎の長男として平鹿郡醍醐村野中(現 横手市平鹿町醍醐)に出生。
・大曲農業高校を卒業後、父の片腕として応鷹園開発にかかわり、入植農家の経営、生産技術の指導に努めた。
この頃、応鷹園を起点として周辺原野、山麓にリンゴの植栽が進み、生産物の販売に苦労するようになった。

大正14年(1925)

地域の有志と図り、大消費地を視野に入れた「応鷹園林檎販売利用組合」を創立し、組合長に就任。
以降解散の昭和18年(1943)まで18年間その職にあって、組合員の生産向上、経営安定に尽力する。

昭和23年(1948)

太平洋戦争終了後、果樹農家の経営安定のため、山谷吉太郎、田中正市らと図り「平鹿果樹農業協同組合」を設立。

昭和26年~30年(1951~1955)

醍醐村第10代村長を務め、自方自治、教育の振興に大きな功績を残している

昭和29年(1954)

増田リンゴ栽培の開拓者として黄綬褒章を受章。
秋田県種苗交換会で農業功労者の第1号として表彰される。

昭和34年(1959)

亡くなるまで組合長を務め、後継者の育成(果樹青年同志会を設立)共同化の推進に努める。

昭和31年(1956)

果樹生産技術向上のため「秋田県果樹試験場」を誘致した。

昭和34年(1959)

県下果樹生産者の結集を図るため「秋田県果樹協会」を設立。
初代会長に就き果樹業界を統一、その指導に当たり、行政に生産者の声を反映させるようにした。
・果樹の振興、業界の発展につくした功により、受けた栄誉は次のとおりである。
緑白綬有功章(大日本農会)、農事功労者(秋田県種苗交換会)、黄綬褒章(内閣総理大臣)

県平鹿振興局によると、平成28年(2016)の良品と並品の取扱量は、増田リンゴ1,645トン、平鹿リンゴ(醍醐)1,325トン、駒形リンゴ660トンとのことです。